藤田達生

三重大学教育学部教授

プロフィール

[生年月]
1958.10

[学歴]
1987.03 神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了

[学位]
1984.03 文学修士 神戸大学
1987.03 学術博士 神戸大学

[所属学会]
織豊期研究会 日本史研究会 大阪歴史学会 歴史学研究会 中世史研究会 三重大学歴史研究会 伊予史談会

[社会活動]
織豊期研究会会長
教科書副読本監修・執筆
自治体史編纂委員
自治体文化財関係委員
歴史小説などの時代考証

[職歴]
1987 神戸大学大学院文化学研究科 助手
1993 三重大学教育学部 助教授
2003 三重大学教育学部 教授
2013 三重大学教育学部 学部長・研究科長
2015 三重大学大学院地域イノベーション学研究科博士課程兼務教授
2018 三重大学評議員

[学術(芸術)賞]
第28回愛媛出版文化賞,『秀吉と海賊大名』中公新書,2013.01,愛媛新聞社

[専門分野]
日本近世国家成立史の研究

[主要著作]
『日本中・近世移行期の地域構造』(校倉書房、2000年)
『日本近世国家成立史の研究』(校倉書房、2001年)
『城郭と由緒の戦争論』(校倉書房、2017年)
『藤堂高虎論─初期藩政史の研究』(塙書房、2018年)
『謎とき本能寺の変』(講談社現代新書、2003年)
『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書、2007年)
『秀吉と海賊大名―海から見た戦国終焉』(中公新書、2012年)
『天下統一―信長と秀吉が成し遂げた「革命」―』(中公新書、2014年)

講義一覧


新史料の発見で見直される「本能寺の変」

織田信長と足利義昭~検証・本能寺の変(1)はじめに

新しい史料の発見、歴史研究の刷新等によって、従来、盛んに唱えられていた「信長=天才的イノベーター」「光秀=私怨による謀反人」という見方が払拭されつつある。光秀を悲劇に巻き込んでいったともいえる「織田信長と足利義昭」の関係にスポットを当てた連続講義で、一足先に戦国の英雄たちに触れてみてほしい。(全8話中第1話)


安土と鞆の二重政権がしのぎを削った7年間

織田信長と足利義昭~検証・本能寺の変(2)画期としての天正八年

天正八(1580)年三月、勅命講和による大坂本願寺退去。五月、織田信長と毛利氏の間に講和の動き。八月、九州三大名の調停案に潜む信長西国出馬の予兆。この年の「安土幕府」の動向は目まぐるしく変化し、歴史にあらかじめ定められた方向がないことを教えてくれる。日本史の画期となったこの年の歴史に、新しい研究や史料が踏み込んでいく。(全8話中第2話)


二つの史料に見る天正九年の鳥取城攻撃

織田信長と足利義昭~検証・本能寺の変(3)信長の西国御出馬その1

羽柴秀吉の中国攻めは、軍記物などに明るく語り継がれているが、実態は激しく厳しいものだった。そして第二次鳥取城攻撃は局地戦の域を超え、大将同士の対決を臨む苛烈さを呈していた。「城攻めの名手」と呼ばれた秀吉は、織田信長の意思を実現するための道具だったのか、それとも「逆もまた真」なのか。(全8話中第3話)


明智光秀の家系図から読み解く人間関係

織田信長と足利義昭~検証・本能寺の変(4)信長の西国御出馬その2

系図は一族代々の系統を書き表すもので、封建社会では特に重んじられていた。では明智光秀の系図はどのようなものなのか。本能寺の変の真実に迫るべく、二つの図を参照しながら、光秀をめぐる人間関係、そして当時の織田家における勢力関係について解説を進める。(全8話中第4話)


本能寺の変「四国説」の重要人物、三好康長とは?

織田信長と足利義昭~検証・本能寺の変(5)四国説

本能寺の変の原因として、俄然浮上しているのが「四国説」である。織田信長の四国討伐を阻むために明智光秀が謀反を起こしたというのが「四国説」の骨子であるが、「石谷家文書」の新発見によりさらに脚光を浴びることになった。古文書による同時代の語りを聞いてみよう。(全8話中第5話)


実力主義の織田家中で巻き起こる重臣たちの激しい派閥抗争

織田信長と足利義昭~検証・本能寺の変(6)派閥抗争

これまで学校の社会科の授業では、「本能寺の変」を明智光秀の単独謀反と教えられてきたはずだ。しかし、新旧の勢力が入り乱れた中国・四国の情勢、その様子を瀬戸内海の真ん中からうかがう「鞆幕府」などの思惑を考えると、事はそう単純ではなさそうだ。同時代人の記した文献には、どのような人物の名が挙がっていたのだろうか。(全8話中第6話)


本能寺の変はなぜ6月2日だったか…四国攻撃軍と明智光秀

織田信長と足利義昭~検証・本能寺の変(7)派閥解体

天正十(1582)年、織田信長にとって天下統一の最終段階が来ていた。三男の信孝を三好康長の養子として讃岐国主とし、康長は阿波国主とする方針を記した朱印状の中で、信長は自ら淡路に出向くと書いている。六月四日に予定されていた出陣は、四国攻めだったのだ。同時代の証言と西国配置構想から、本能寺の変直前における織田政権の、急激な膨張ゆえの危うさを見ていく。(全8話中第7話)


本能寺の変直前の派閥の「三層構造」

織田信長と足利義昭~検証・本能寺の変(8)結び~中世と近世の相克~

「事件史」や「人物史」として語られることが多かった本能寺の変だが、それでは本質的な見方にならないことをこれまで7回に分けて伝えてきた。これは織田政権の持っていた矛盾が臨界点に達して爆発したものである。織田政権の本質を知り、戦国末期の日本の姿を知るために、本能寺の変にいたる「三層構造」を捉えていく。(全8話中第8話)